【ファッション・ビジネス回顧録―日本FBの誕生・発展 と 旭化成FITセミナー】    <第4回>  旭化成FITセミナー第I期(1970~79年)―業界に残した足跡

旭化成FITセミナーの初めの10年、すなわち第I期は、 ファッション・ビジネスの専門分野の基本を、F.I.T.の教科にくわえ、米国の実践事例によって学んだ時期でした。 

<第Ⅰ期に開催されたコース>

この第I期(1970年~79年)で取り上げた専門分野は、「デザイン」、「アパレル生産」、「マーチャンダイジング」の基本3分野に加え、「アパレル・マーチャンダイジング」、「テキスタイル・マーチャンダイジング」、「ファッション・コ―ディネーション」、「テキスタイル・スタイリング」、「セールスマンシップ」。さらに、トップ教育をしてほしい、との受講者の要請にこたえて、「トップセミナー」も開催しました(1973年から)。これらのコースは、そのままの形でF.I.T.が実施していたものではなく、カリキュラム開発から講師の発掘まで、F.I.T.の協力を得ながら、新規に企画することになりました。講師も、F.I.T.で正式コースになっていたいた基本講座はF.I.T.教授陣で継続しながら、あらたに業界のエグゼクティブを講師に招くコースを1972年から並行して開催しました。

これらの中から、今振り返って、業界へのインパクトが特に大きかった3コースを紹介しましょう。 

<反響が大きかったコース 3事例の紹介> 

A) 小売りのマーチャンダイジング=Tea Pot理論


 ジョセフ・シーゲル氏(Lane Bryant社 副社長 当時)を講師に迎えた1972年の 「ファッション・マーチャンダイジングとマーケティング」コース(会期3週間)では、マーチャンダイジングのコンセプトを図に描いた、“リテール・マーチャンダイジングのティーポット理論”が大きな感動を巻き起こしました。

「小売りの売り場は、つねに新鮮でエキサイティングにキープせよ。絶えずおいしいお茶を淹れているティーポットであるべし」

とするシーゲル氏の “ティーポット理論”は、次のようなものでした。

(「下の図はシーゲル氏の当時の手元資料。講義ではこれを黒板に書いて説明。日本語訳は、このブログのため尾原が挿入」

“ティーポット”には、まず「商品の仕入れ」として水が入る。それを下から火力(「販売と販促=資金投入」)で沸かす。結果として出る蒸気が「売り上げ」となる。ここで重要になるのは、「最適在庫水準」。「在庫の不足」は売り場の活気をそぐし、欠品にも要注意。だからと言って過剰の在庫は売り場を雑然とさせるし、必要な火力も大きくなり、売れ残り商品(売り場の「ゴミ」=古い茶葉)も早く処分しないと、売り場が汚くなってしまう。、、、といった具合に、マーチャンダイジングの進め方を、各プロセスに分けて、詳細に解説するものでした。(売れ残りについては実際に、ガラスのコップに水を入れて受講者に飲んでもらい、その後、黒板のチョークの粉(ゴミ)を入れて、「こちらも飲んでみて。毒ではないよ。」と云っても、誰も手を出そうとしない、という演技までありました。)

  • ティーポット理論を象徴するアイコンのお土産

 このコンセプト図は、マーチャンダイジングの素晴らしいアナロジーだと私自身も納得しました。しかしそれ以上に感心したのは、講師が、そのコンセプトのアイコンとして、「根付け風」に仕立てた小さな金属製のティーポット・ストラップを、講義最終日に参加者全員に配ったことでした。

講義の核となるコンセプトを象徴するアイコンを、自ら用意して、お土産として配る! 何という憎い演出でしょう。 私はここでも、アメリカ式の 「顧客(ここでは受講者)重視」のマーケティングの神髄を見る思いがしました。(根付風ストラップは、なんと、東京観光でご案内した浅草仲見世でみつけた、と。閉講式に間に合うよう、早めに発注をされていたことを後日知りました。)

 ちなみにこのコースは、高島屋の石原一子氏、海渡の海渡五郎氏などが受講されましたが、ティーポット理論は、受講者以外にも広く浸透しました。

 

B) アパレル・マーチャンダイジング=キャリア・ウーマンの台頭とコンテンポラリー・ファッションの先がけ

(画像の〇で囲んだポートレートは、左から、シーゲル講師、ゲルファンド講師、ニューマン講師。旭化成FITセミナー20周年記念冊子表紙より)

 1974年に開催した「衣服メーカーの」マーチャンダイジング」(会期12日間)では、当時の米国で話題を呼んだ、アパレル企業の女性社長 グロリア・ゲルファンド氏 (Picato社長 当時)が講師でした。大手食品グループのGeneral Millsが、急成長するアパレル分野に参入するため設立したPicato社の社長にとスカウトしたゲルファンド女史。大学で化学を専攻したチャーミングで人懐っこい人物で、キャリアのスタートはファッション・モデルでした。こんな女性が社長に抜擢されるアメリカは、まさしく新時代を切り開いている、と、大いに感動したものです。

講義の主な内容は、ファッション・マーチャンダイジングとは何か、にはじまり、“2次製品メーカー”(アパレルの言葉は当時まだ普及していなかった)のマーチャンダイジング組織や専門職の役割(スタイリスト、デザイナー、ファッション・コーディネーター)、年間カレンダー、マーケティングの重要性など、当時の日本にとっては、目新しいことばかりでした。

当時の米国では、ファッション・サイクルの短縮化と企業規模拡大による変化が起きており、それらのマーチャンダイジングへの影響、消費者ターゲットを明確にする必要性、ベーシック・スタイル対ファッション商品、価格ポイントなどについても詳細な講義がありました。

女性の社会進出も目立っていました。Picato社はその新しい客層に、おしゃれな“Sportswear”(単品コ―ディネートによる活動的ウェア。日本ではタウンカジュアルなどと呼ばれた領域)を提供し注目を浴びていたのです。この流れはその後の、“コンテンポラリー・ファッションの先駆けとして、受講者に強く印象づけられました。

  • 女性エグゼクティブの先駆者としての言動

 ゲルファンド氏に関して、最も強く私を揺さぶったのは、取締役会デビューのエピソードです。初めて新社長として紹介される日、ゲルファンド氏は、本部から出張してきた会長の訪問を受けていました。会長がリラックスして雑談にまでおよぶ間、ゲルファンド社長は気が気ではなかった。なぜなら彼女は役員会に間に合うよう、同じビル内の美容院に予約を入れていたからです。刻々とせまる役員会の開始時刻。ついに彼女は意を決して宣言しました。「Mr. Chairman. You’ve got a WOMAN President!!」(「会長さん、あなたの新社長は女性なのです!」) そして席を辞し美容院に駆け込んだそうです。 時代を切り開いてゆく、女性エグゼクティブの決死の行動に、大いに共感しました。

ゲルファンド氏の言葉: 「ダイナミックな米国のファッション産業と経営者にとって、正しい道は一つしかないか?」 まとめのメッセージ、「あなた自身を信じなさい」も、意気盛んな受講者には、大きなインパクトを与えました。

 

C) テキスタイル・スタイリング=感性をシステムに乗せるクリエイティブ活動

「テキスタイル・スタイリング」 コースは、Dan River社 クリエイティブ・ディレクターのエドウィン・ニューマン氏を講師に招きました。1976年開催した1回目の講義中心の講座(会期3日間)を、翌年には7日間の実習コースに拡大。その後も人気コースとして継続して、多くのすぐれた人材を輩出したと自負するコースです。

  • “スタイリング”という、未開拓の領域

テキスタイル・スタイリングとは、テキスタイル・デザイン(プリントや編織の柄が中心)とは異なり、生産手法(編・織、染色・加工手法、など)、ビジネス条件(コスト、生産ロットなど)を纏めて、ファッション(流行)の観点から、生地作りを総合的にマネージする専門業務です。ファッションという複合的視点でマネージする仕事ですから、基礎能力の上に実践的で高度なノウハウを必要とします。教育プログラムにくみ上げるにも、適切な教材や優れた指導者が不可欠でした。このコースは、当時のF.I.T.にもありませんでしたが、テキスタイルの歴史と優れた技術を持つ日本の将来には、非常に重要で有効なプログラムだと、私は考えたのです。

  • クリエイティブな発想のエグゼクティブとの出会い

 講師を探すうちに、幸運にも、ダン・リバーのニューマン氏に出合いました。ダン・リバー社は垂直型テキスタイル・メーカーで、コットン素材を中心に、アパレルとホーム関連(シーツ等)の生地を、先染めやプリント中心に企画・販売しているトップ企業の一つ。氏はそのデザイン室長として、シーズン・カラーの設定から最終生地の完成までをディレクトしていました。

 「この人は、すごい!」と感服したのは、デザインの現場での氏のスタッフを啓発する指導力でした。また100人近いテキスタイル・デザイナーの仕事をコ―ディネートする手法として彼が実践している手法にも感動しました。例えば、異なるファブリックの色をコ―ディネートする仕事では、デザイナーたちが個々に気に入った色彩群を選択するのではなく、あらかじめ使用できる色を絞り込んでおく、というシステム化です。彼は毎シーズン、ダン・リバーとしての“トレンド・カラー”(100色余)を設定し、デザイナー達が使えるのは、それらの色に合わせて調合された “絵具”、または、そのトレンド色に染めた“試織用糸”だけ、というルールを実施していました。これは当時日本でも困っていた問題、すなわち個々のデザイナーが自分の好みの色でプリント柄やチェック柄をデザインする、それをデザインが出来上がった後でカラー・コ―ディネートする、のが難しいという、難題を解消していたのです。

  • テキスタイル・スタイリングの7ステップ

 スタイリングの実習コースは、カリキュラムの開発からはじまりました。1年目のレクチャー講義をもとに、それにどのような実習を加えれば、スタイリングの最前線が学べるか? これには筆者だけでなく、ニューマン氏も大いにエキサイトされ、ニューヨークでの打ち合わせはトントン拍子に進みました。企画の主なポイントは:

 ■テキスタイル・スタイリングのプロセスを 7 ステップに分ける:具体的には、

Step 1 情報の収集(市場、消費者、社会経済環境など

Step 2 ファッション傾向のまとめと提示

Step 3 カラーの選択(カラー・ストーリーの作成)

Step 4 商品ラインとコンセプトの準備(テーマも)

Step 5 コンセプトの展開=試作・検討(製品化への)

Step 6 商品ラインの絞り込み、編集

Step 7 最終ラインのプレゼン(全受講者に対して

 ■ 実習に必要なカラーチップの準備 (色生地、色糸のサンプル帳、パントン・カラー等)

 ■ 各自が企画を立てる材料としての多種多様な生地 (生地問屋やメーカーに協力いただいた生地サンプルを段ボール30箱以上用意)

(テキスタイル・スタイリングの実習でのプレゼンテーション。右端がニューマン氏)

  • 「自分で考えさせる」手法の徹底

 受講者は多種多様でした。ベテランのテキスタイル・デザイナーや生地問屋の企画者は勿論ですが、合繊メーカー(旭化成以外)の営業課長も、産地の生地メーカーの経営者も参加されていました。つまりファッションやデザインの知見も体験も千差万別。それでもニューマン氏の指導は、「まず、やってみなさい」でした。そして各人の作業状況を見ながら、初心者には「なかなかいいね」と激励を、ベテランには、よくできている仕事でも、「もうひとつだね。もっといいものが出来るのでは?」と突き放しながら、考えるヒントを与える、といった具合でした。

 この教え方を、「もう少し親切に、やり方を教えてくれるといいのに」と見ていた私でしたが、「500円づつ与えて、カラー・ストーリー事例を街で探す、午後半日のリサ―チ」プロジェクトの結果に、仰天しました。カラー・ストーリーは “エモーション”、どんな感情を引き出すか、だとするニューマン氏は、エモーションの源泉を見つけに受講者を教室から街に出したのです。驚いたことに、カラーについては全くの素人と思われた受講者までもが、例えば、ピンクや白やミント(薄緑)のパステルカラーのハッカのキャンディーが詰まった袋を購入して、“ベビーを見つけた”、といった素晴らしい報告をしました。皆、非常に苦労したようでしたが、「あれ以来、見るものすべてが“カラー・ストーリー”に見えます」と言った受講生に、感服。「まず、やらせてみる」、に納得でした。

  • 「テキスタイル・スタイリング」は、I.T.の正式講座に

 実はこのコースについては、F.I.T.からチェックが入りました。コースが非常に好評だったと聞いたF.I.T.のマービン・フェルドマン学長からで、「ヨーコ、あなたはF.I.T.にないコースを 『FITセミナー』 と称してやっているそうじゃないか」と。ユーモアたっぷりのクレームでしたが、私は弁明に努めました。ところが何と翌年から、F.I.T.本校で、このコースが正式に講座になったのです。それも、ニューマン氏が担当教師で。

 FITセミナー第I期で、「テキスタイル・スタイリング実習コースほど感銘を受けたコースはなかった」と、私自身が繊研新聞のコラム、「FBへの提案」で書いた達成感を、いまあらためて思い出しています。                                      

(第5回に続く)

【ファッション・ビジネス回顧録】  ― 日本のファッション・ビジネスの誕生・発展 と 旭化成FITセミナー <第3回>旭化成FITセミナー開講

<“ファッション・ビジネスの本質は変化”―開講初日の衝撃>

旭化成FITセミナー第1回は、1970年8月2日から4週間の会期でスタートしました。

 開催されたプログラムは、F.I.T.の主要3コースのエッセンス。すなわち、「ファッション・デザイン」、「アパレル生産工学」、「ファッション・バイイング&マーチャンダイジング」の3学科の講義1年分のコアを4週間に圧縮した内容でした。招聘した講師はそれぞれの学科長。圧縮したカリキュラムの策定には、日本FIT会(1969年設立の卒業生会)の杉本明子氏(ファッション・デザイン学科卒)と池田勝彦氏(アパレル生産工学学科卒)の協力を頂きました。ファッション・マーチャンダイジングは筆者(ファッション・バイイング&マーチャンダイジング学科卒)が担当しました。

 セミナーは帝国ホテルの宴会場で、3コース合同の開会式、閉会式。各コースの授業は、毎日、午前の4時間、宴会用小部屋を教室用に設営して、同時並行で行われました。

 

 

初日の最大のメッセージは

「ファッション・ビジネスの本質は変化。このビジネスで唯一不変のものは、それが変化し続けることである」

同時に、「しかし、基本は変わらない。」 も強調されました。基本とは、「このビジネスでは、すべては消費者に始まり、消費者に終わる。」という、“消費者起点”の考え方、そして「実学」における、基本と応用の“基本”でした。

第1回の受講者のほとんどが、これを強烈に受け止めたことが、アンケートに表れています。 

<各コースの主な内容>

 ■「ファッション・デザイン」 コース

このコースでは、ドレーピング(立体裁断)およびパターン・ドラフティングを中心とする、デザイナーのための 基本的かつ最も重要な技術の訓練。そしてデザイン活動のステップや、創造的デザイニングのアイディア手法を、実習を中心に学ぶものでした。

 参加者には業界リーダーと目されていた方も多く、そのひとり、(株)東京スタイルの技術・デザイン部長鈴木スズ氏(故人)は、「理論に裏付けられた実践教育が素晴らしい」、と高く評価され、毎日講義終了後、その日に学んだことを、自社にもどってスタッフに教えておられました。

■「アパレル生産」 コース

第1回セミナーでは「縫製工場の生産管理」と名付けられたこのコースの主な内容は、生産工学とは何かの概説に始まり、工程分析(タイム・スタディ、モーション・スタディなど)を基盤とするシステム作り、原価計算(生産管理、品質管理、人事管理)などでした。

■「ファッション・マーケティング・マーチャンダイジング」 コース

 米国のファッション産業の実態(産業構造など)の紹介からはじまるこのコースでは、“ファッションとは何か”を3時間半かけて考察。F.I.T.での定義である 「ファッションとは、ある特定の時期および場所において、多くの種類の人間が受け入れ、またはそれに従う衣服のスタイル(より広義に考えれば行動)の変化の過程の一連のもの」(『ファッション・ビジネの世界』)、についても、レクチャーとディスカッションが続きました。ファッションとは、“Way of Life”(生活の仕方)だとの見方も、この時すでに出ていたことを、いま改めて感銘ふかく思い出します。

 ファッション商品のマーケティングとマーチャンダイジングについては、その体制や販売在庫管理、仕入れの手法などの実務の詳細な講義がありました。「単品ベース」(「金額ベース」だけでなく)での在庫や販売管理の重要性、いわゆる「単品管理」という、当時の日本ではまだ一般的ではなかった基本概念、の重要性が強調されました。Open-to-Buy、Mark Up/Mark Down、といった、初めて耳にする多くの言葉も、新鮮な学びでした。 

<受講者の殺到と、セミナーの反響>

4週間のセミナーの参加料は、一人15万円と、当時としては高価なセミナーでしたが、参加希望者が殺到。各コース30名が定員でしたが、希望者全員を受け入れることが出来ず丁寧なおわび状を出した記録が残っています。(高価なセミナーと言いましたが、実は、膨大な配布資料(すべて邦訳)・同時通訳・昼食・懇親会などの経費、帝国ホテルの会場費、リサ―チに要する経費など、旭化成が負担した費用は膨大なものでした)。

とくに人気があったのは、No.3コースのマーチャンダイジングで、どうしても参加したいとの要望が多く、席の配置を工夫して39名を受け入れました。錚々たる参加者の顔ぶれには、伊勢丹 鈴木祥三氏、阪急百貨店 西村庄二氏、東急ストア 川島宏氏、(株)大賀 大賀啓三氏、(いずれも故人)、などのほか、西武百貨店の保坂武雄氏、の名前があります。

この回顧録を書くにあたって、西武百貨店取締役・池袋店長も務められた保坂武雄氏に「旭化成FITセミナー第1期生としての感想」を伺ったところ、「ファッションは生活者の変化に沿って常にチェンジする、そのことは不変。その通り実行しつくすこと。ビジネスも政治も同じ」との強いメッセージを頂きました。

セミナー終了後の反響は大きく、「理論と実践の融合」、それらが「すぐれたカリキュラムになっている米国の実態」などへの賞賛の声が高く、業界紙も相次ぎ参加者による座談会を開催するなど、しばらくは、ファッション・ビジネス・フィーバーの感がありました。 

<FITセミナー事務局の多様な準備業務>

米国のファッション・ビジネスの紹介・啓蒙は、カリキュラムを策定し、講師を招聘してセミナーを開催する、だけで済むものではなく、多くの準備が必要になります。

たとえば、受講者の理解を深めるため、「日米ファッション・ビジネス比較」小冊子の作成。(日米の経済力や国土、産業構造や商慣習の違いを対比する資料)。あるいは講義に頻発する専門用語集(マーチャンダイジング、マネジメント、トレンド、ファッドなどなど)。米国業界紙の主要記事を邦訳して参考資料とする、など。これらの資料は、テキスト(アウトライン)とともに、分厚いバインダーに入れて初日に配布します。このバインダーは、旭化成FITセミナーの名物になりました。

 通訳さんの特訓も非常に重要です。コースの目的や参加者の期待を共有する、専門用語の日本語訳を統一する、などのため、毎回、各コース別に3時間の事前ブリーフィングを行っていました。訳語統一では、たとえば 原語Sportswearはカジュアル、Collectionは商品ライン、とするなど、日本の業界特有の誤解を生まない訳語の使用を徹底しました。

これらの事務局スタッフの努力に加え、セミナー運営もすべて旭化成社員により行われましたから、このセミナーはまさしく旭化成の繊維事業部挙げてのプロジェクトでした。 

<旭化成FITセミナーは長期開催へ>

セミナーは、2年目から「パターンメイキング」コースを追加。3年目には、トップセミナーもスタート。1973年にはマーチャンダイジングを小売りとアパレルの2コースに分けるなど、業界の進化と要望にあわせて、どんどん拡大してゆきました。下の図に見るように、最終的には1997年まで継続、延べ168講座を開催する結果になりました。

1973年の石油ショックでは、原油価格が約4倍に高騰、素材メーカーの旭化成も大きな痛手を受け、FITセミナーの継続も危ぶまれました。しかし今野栄喜氏(当時繊維販売促進部長)の熱意と宮崎輝社長のビジョンのもと、継続が決定。そのためには、それまで広報活動として認められていた巨額な経費を削減し、セミナー開催の直接経費だけでも受講料でまかなうことを目標に、受講料も引き上げることに。当然ながら、それに見合う価値があるセミナーを企画することが新たに大きな課題となりました。

10周年を期して、“業界に開放したFITセミナー”を自社単独で実施する事は終わりにしたい、との考えが旭化成にはありました。しかし当時、F.I.T.のような教育機関を日本にも作るべし、との動きが活発になっており、通産省(現在の経済産業省)から、「日本にしかるべき教育機関が出来るまで、ぜひ続けてほしい」との要請がありました。それにより、最初の10年を第 I 期として一区切りし、その後は教育機関設立の進捗を見ながら、3年刻みで継続する、という方針が決まりました。結果的に旭化成FITセミナーは、上の図に見るように、第 VII 期まで、即ちIFIビジネススクール開校までの28年間、毎年続けて開催しました。

                                                                   (第4回に続く)

 

 

【ファッション・ビジネス回顧録】  ― 日本のファッション・ビジネスの誕生・発展 と 旭化成FITセミナー     <第2回> 『ファッション・ビジネス の世界』の出版

<F.I.T. でのの衝撃:「ファッションはビジネスである」 >

F.I.T. (ニューヨーク州立ファッション工科大学)での学びは、初日から「驚き」の連続でした。

1966年8月末、ニューヨークのマンハッタン中心部、西27丁目に位置するF.I.T. での初日のクラスで、まず衝撃を受けたのは、「ファッションはビジネスである」、でした。F.I.T. が「実学」の大学であることは知っていましたが、1944年に業界主導で創設された専門高校が公立のファッション総合大学の発展した経緯から、アート、ビジネス、デザイン、テクノロジーの4分野を通じて、「実学」がモットーであり、ファッションも、「ビジネスとして成立しなければデザイナーといえども存続できない」、という考え方が徹底していました。

ファッションを、「美しさやデザインの表現」と単純に捉えていた私にとっては、まさに目から鱗。「ファッションは厳しいビジネスの世界なのだ」、が以後の学びの基本(核)となりました。

さらに、「FB(ファッション・ビジネス)は消費者に始まり 消費者に終わる」、「小売のレジが、何がファッションになるかの投票箱」 という視座と消費者への照準。たとえ業界構造の川上・川中(テキスタイル、アパレル段階)で話題を呼んだ製品でも、それが消費者に受け入れられなければ、ファッションにはならない。ファッション・ビジネスでは、素材メーカーといえども、小売りと消費者の動向を注視せねばならない、ということでした。サプライチェーンの言葉など無かったこの時代でも、その考え方はすでに明確でした。

<実学の徹底>

「実学」はあらゆる面で生きていました。たとえば、必須科目の「テキスタイル科学」では、インダストリー(工業)としての繊維あるいは編織や高度な後加工の手法などを教えますが、小売りのバイヤー教育では、繊維の識別方法を身近にある材料を使って教えます。専門的な試薬がなくても、マッチや水、マニキュア除光液を用いて、素材の燃え方や、水を含むと強度が弱くなるか強くなるかでレーヨン、麻、コットンを。さらに除光液(アセトンに溶ける)でアセテートを見分ける、といった具合です。小売りの仕入れオフィスに持ち込まれる製品の表示に偽りがないか、あるいは取扱説明を確認する基本的で簡便な手法を教え、バイヤーやデザイナーの実務能力を磨くのです。

課題でも、学生たちは、業界に積極的に関わりながら、実践的な知識を身につけていきました。プロジェクトのテーマを自分で選ぶことが推奨され、私は旭化成勤務の経験から、デュポン社に足を運び、販促キャンペーンの効果や費用について直接学んだりしました。F.I.T.での教育は、教室での学びを超え、現場での実践がプロを育てる重要な要素であることを教えてくれました。カリキュラムが、創・工・商、つまり、創造活動、製造/技術分野、商業を連動させるよう組み立てられていることにも感心しました。

<『ファッション・ビジネスの世界』――翻訳と記念出版>

F.I.T. の教科書、 “Inside the Fashion Business”との出合いは、まさしく目からうろこの衝撃であり、私の人生を変えました。

この本は、F.I.T. の最大専攻である、小売りの「バイイング&マーチャンダイジング」 を専門コースとして組み上げた ジャネット・A・ジャーナウ女史が、「教科書がない!」と、リサーチャーのジュデール女史と組んで自ら書き下ろしたもので、業界でも“ファッション・ビジネスのバイブル”などと呼ばれていました。ジャーナウ氏は、米国トップの百貨店グループ、フェデレーテッドの中でも、最も利益を上げていた A&S百貨店(Abraham Straus)の商品部長として業界の高い評価を得ていた方でした。この本で学ぶ「ファッション・ビジネス入門」講座は、F.I.T.のすべての専攻で初年度の必須科目となっていました。 

奇しくもその頃(1967年)、旭化成では自社技術での開発に苦労したアクリル繊維のカシミロンが大成功しており、発売10周年を期して業界に謝意を表する記念事業の企画が進んでいました。F.I.T. 留学中の尾原にも、「記念事業にふさわしい良いアイディアはないか?」と問い合わせがきました。

私は迷わず “Inside the Fashion Business”の翻訳出版を提案しました。この本が説く、日本にはまだないファッション産業の構造とビジネスの仕組みが日本で実現すれば、日本の繊維衣料品産業は画期的な飛躍を遂げると考えていたからです。さらに当時の日本には、それまで輸出ビジネスとして急拡大していた繊維産業(糸と生地中心)が、発展途上国による追い上げや先進国の輸入制限などで苦戦しはじめており、将来への危機感がありました。内需拡大につながる既製服重視の考え方は、正に日本が進むべき方向でした。

この本は、日本では まだ未発達であったアパレルや小売りのビジネスを重視し、繊維・テキスタイルだけではない業界全体を俯瞰する、新たなビジョンを示すものだったのです。 

 

<記念出版して、旭化成が恥をかくことはないか?――――キャリア最大の決断へ>

しかし出版の提案は、簡単には実現しませんでした。まず、本の概要や章立てを説明しましたが、「ファッション・ビジネスとは何か。よくわからん」、「流行のような変化が激しいものをビジネスとして扱えるのか?」と疑問が送られてきます。説明と更なる質問が航空便やテレックスで何回も往復しました。そして、最終的に来たテレックスの質問は、何と、「良さそうな本だが、これを記念出版して、旭化成が恥をかくことはないか?」 でした。

私は絶句しました。当時28歳。専門的勉強はしていましたが、“旭化成のような大企業が記念事業で恥をかく”とはどういうことか。想像もできません。でも相談する人がいない事だけは、すぐに分かりました。当時ニューヨークに駐在していた商社マンは、糸や生地以外には“ワン・ダラー・ブラウス”などと呼ばれた安物のブラウスをシアーズなどに卸しているだけでしたし、日本に居る海外ビジネス担当者は「ファッション」の言葉すら、寝耳に水だったからです。

三日三晩 爪を噛みながら考えて、「恥をかくことはありません」 と一行の短いテレックスを打ちながら、私は密かに決意していました。「今、私がリスクを恐れて、この企画を引っ込めたら、日本の繊維衣料品業界の大きな飛躍のチャンスを失うことになる。万一この本が理解されないことがあれば、自分が日本中を説いて回ろう」、と。今振り返ると、これは私のキャリア最大のコミットメントでした。

しかし思えば、旭化成にとってもこの本の出版は ”大きなリスク” でした。それを決断された関係者に敬意を表するとともに、私に置いていただいた ”信頼” にも感謝しています。

Fashion Businessの訳語についても、3時間半の議論があり、「ファッション・ビジネス」で行こう、との東洋経済新報社編集長の最終提案にも、旭化成メンバーは、「ショービジネスみたいで、軽佻浮薄に聞こえる」と、心配そうな面持ちでした。しかしこの言葉もすんなり社会に浸透し、1年後に一般紙の株式市況欄で、「ファッション・ビジネス関連株 高い」の見出しを見た時には、密かに「やったー!」と小躍りしました。

<旭化成FITセミナーの開始:1970年>

 1968年8月の記念事業で配布された、訳書『ファッション・ビジネスの世界』は、大きな反響を呼びました。当時、流通革命のリーダーとして飛ぶ鳥を落とす勢いであったダイエー創業者の中内功氏などが、「これをもっと詳しく学びたい!」と旭化成トップに要請。「業界向けのセミナーが出来ないか、検討してほしい」との指示が、記念事業事務局長の森合敬忠氏と担当の藤本慶光氏(いずれも故人)からありました。私は丁度 長男を出産した直後でしたが、F.I.T. のジャーナウ教授(当時、FITのファッション・バイイング&マーチャンダイジング学科長)に相談と依頼の手紙を書きました。

そしてF.I.T. の協力を得て、「旭化成FITセミナー」が、1970年7月に開講する運びになったのです。

『ファッション・ビジネスの世界』の巻頭言で旭化成の 宮崎 輝 社長は述べています。

「繊維原料メーカーとして、当社は、いわゆる「ファッション」産業への様々な働きかけを行ってきました。また、つねひごろ業界から多くのご愛顧を頂いているものとして、何か有意義な企画をと考えていましたところ、はからずもカシミロン発売10周年記念の一つとして、このような有益な著作を江湖の関係者におすすめできる機会を持ちえたことは、まことに時宜にかない、意義深いことであると思います。」 業界の発展を願う当時の素材メーカーの心意気を表すものでした。                           

                      (第3回へ続く)。