三宅一生さんが、8月5日、84歳の生涯を閉じられました。類まれなる才能と独自の哲学をもって、既成概念を覆す大胆な服作りで世界的に大きな衝撃と影響を与え続けた、日本が世界に誇れるデザイナーでした。
テレビの追悼番組、「陶器のボタンの贈り物」(NHK月曜美術館 再放送)を見ながら、陶芸家ルーシー・リィー氏を語る一生さんの穏やかながら想いがこもった熱い言葉に、この声を二度と聞くことが出来ないと思うと、胸が締め付けられ涙が止まりませんでした。日本にとって本当に巨大な損失。心からご冥福をいのります。
<あらゆる面でのイノベーターだった三宅一生>
一生さんは、単なる服飾デザイナーではなく、挑戦者であり革新者でした。とくに、“もの(プロダクト)づくり” の視点から、クリエーションとインダストリーの連携を提示し、未来へのビジョンを指し示したクリエーターだったと、畏敬の念すら感じます。
創造的デザイナーとしての一生さんを讃えてその死を悼むメッセージや評論はすでに多数紹介されていますが、私は、産業としてのファッションの観点から、氏の5つの功績を強調したいと思います。
1.プロダクト発想(クリエ-ションの工業化)=プリーツ・プリーズ――かっこいい量販品
2.コレクション(創作活動)と工業的生産・販売の有機的連動
3.テクノロジーをデザイン設計に活用―― A-POCなど
4.サステイナビリティの実践=132 5 ISSEY MIYAKE―リサイクル素材、ムダ削減の加工手法
5.工業と工芸の融合――1枚の布、を原点とする職人芸(創作への愛着・手仕事のぬくもり)
(123 5 ISSEY MIYAKE ㈱三宅デザイン事務所 Reality Lab.提供。尾原蓉子著『Fashion Business 創造する未来』より)
<一生さんとの出会い>
初めてお会いしたのは、1974年春。結果的にIssey Miyakeの2年目のパリ・コレクションで使われることとなった新素材の紹介でした。当時世界でも珍しかったアクリルの長繊維(フィラメント糸=蚕が生み出す絹のよう細く連続した長い繊維)の開発にかかわっていた旭化成時代の私が、アポをもらっておずおずと訪問。すでにデザイナーとして著名であった一生さんが、非常に優しく自然体でプレゼンを受けて下さり、15分の約束が1時間を超えるほどの熱量で接して下さったことに感激した出会いでした。
コレクションでは、この素材(ピューロン)が、コマ(独楽)と名付けたカラフルな横ストライプのフルスカートに編み上げられ、多彩なコマが回るようにモデルが舞う華やかなフィナーレになりました。場所はモンパルナスの著名ビストロ、ラ・クーポール、音楽はビートルズの、オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ。晴れやかな笑顔で踊るモデルたちの収録ビデオが、今も目に焼き付いています。合繊がまだ、天然繊維の代替品と思われていた時代に、“これは素晴らしい”と評価して下さったデザイナーとしても、強く印象に残っています。
以来今日に至るまで、様々な場面でご指導をいただきました。
<ファッション産業の未来ビジョンを示した三宅一生>
多々あるIssey Miyakeのイノベーションの中でも、とくに日本のファッション産業の未来への方向性を示唆する、と筆者が考える5点とその理由は:
1.プロダクト発想(クリエ-ションの工業化)=プリーツ・プリーズ――スタイリッシュな量販品の確立
プリーツ・プリーズは、それまでの生産プロセスを逆転した革命的製品です。つまりプリーツ加工した生地を裁断して服にする方式ではなく、仕上がった服を想定して大きめの寸法に裁断・縫製したものを、デザインを実現する様々な折り方で畳んで、プリーツ機に送り込み、永久プリーツの熱加工をする手法です。製品在庫を、最終的なデザイン仕上げ前の状態で持てるという、売れ行きリスク削減面でも画期的でした。
三宅氏は、パリコレに毎回参加しながら、少数エリートのための高級ファッションと並行して、年齢や職業とも関係なく現代的な美しさを持つと同時に、機能的で、トレンドとも異なる、イージーなスタイルの服があっていいと、考えていました。プリーツ・プリーズは、「ジーンズやTシャツのように多くの人が自由に着られる服」 を一貫して追求した氏のデザイン思想をまさしく具現化したもの。ポリエステル素材の安価で熱可塑性(高温で形状が固定できる)特質を生かした、インダストリー発想のプロダクト創成を象徴するものといえます。89年春夏コレクションを準備中の三宅氏が、「パン焼き機から出てくるみたいに、ポコンとブラウスが生まれている」、と表現したことはよく知られています。
2.創作活動(コレクション)と工業的生産・販売の有機的連動――クリエイティブな会社が、マス市場向けビジネスを併存させる、という仕組み。
一生氏は、クリエイターとして年2回のコレクションを発表しながら、大衆路線の量産品も生産するという、二つの異る仕事を同時並行で進めました。氏の言葉です。「私にとって、この二つのデザインは両方とも必要なのです。しかしデザインのコンセプトは違っています。コレクションの方は、スタッフたちのリサ―チと訓練の場です。皆感情を熱くして仕事をします。もう一つの量産品の方は、少人数で、冷静に、色々な組み合わせをしたり、いかに継続させてゆくのかを考えます。そしてマンネリ化しないように、常に新しいショックと話題性を提供していくことを考えます。そのため “ゲスト・アーティスト・シリーズ”を96年から始めました。どうやってアーティストを服の中に引き込むかも、こちらも首をかしげて見たいわけです。」(『Issey Miyake Making Things』 佐藤和子解説文 「時を超えた服―三宅一生の三十年」より)
プリーツ・プリーズは、量産といっても、画一的製品を大量に作るのではなく、細かい仕組みで多様な表現を可能にする量産です。これを軌道に乗せたことで、創作デザイナーが、膨大なエネルギーや経費をかけてシーズン・コレクションを発表するための、盤石な財政基盤が確立されました。同時に、これにより、氏がいう 「スタッフたちのリサ―チと訓練の場」が、多彩な能力を持つ人材を引き付け、優れた創造力を発揮させるのです。三宅デザイン事務所がそれらの世界級のクリエイター・チームのパワーをまとめます。
3.テクノロジーをデザイン設計に活用=A-POC――編立設計と一体化した創作活動
三宅一生とそのクリエイティブ・スタッフは、高度な技術に大胆に取り組む集団でもありました。それは工学的技術だけでなく コンピュータ技術も含むテクノロジーであり、その真骨頂というべきものが、98年に開発されたA-POCです。氏のアイコンとも言うべきコンセプト、“一枚の布”(A Piece Of Cloth、A-POCはそのイニシャル表示)、と名付けられたこの手法は、服のデザインを編み込んだチューブ状の連続した生地を、利用者がハサミで裁断することでデザインを切り出す手法です。具体的には、経編のラッセル機に改造と工夫を加え、服の設計図をコンピュータに読み込ませて、服の前後に必要な空間がある、部分的に繋がった二重織に編みあげるもの。着用者は、設計された線を選びながら裁断して、自分の好みの襟や袖などのカタチを切りだします。生地はラッセル編地ですが、糸の絡ませ方で、裁断してもほどけない様に設計されています。縫い代のない服作りが可能なので、捨てる部分が少なくなり、省資源にもつながるものです。
「A-POC」と呼ばれる服は、その後、一体成型の完成服だけでなく、服のパーツが織り込まれた織生地を裁断、縫製する、デニム製品などにも展開されました。
クリエイターたちの、デザインとテクノロジーへの革新的発想と実践力に脱帽します。
4.サステイナビリティの実践=132 5 ISSEY MIYAKE ――リサイクル素材活用、ムダを削減するデザイン/加工設計
2010年にブランドとしてスタートした 132 5 ISSEY MIYAKE は、一枚の布(1次元)から立体造形(3次元)が生まれ、折りたたむと平面(2次元)になり、身にまとうことで時間や次元を超えた存在(5次元)になるように、との思いが込められたラインです。(上の画像参照)
三宅氏が、同社のReality Lab.(リアリティ・ラボ)のチームと研究開発を重ねて生まれたもので、コンピュータ・サイエンティストと協働した様々な3次元造形を、折りたたみ、プレスし、切り込み線の位置を変えることでシャツやスカート、ワンピース等を生み出す新たな製法の衣服。基本素材には、改良を重ねた再生ポリエステル生地を使用。サステイナブルで、機能的、洗濯自在で、しわにならない、という、時代の要請をフルに盛り込んでいます。一生氏の、「再生・再創造」というものづくりの考え方を集約した、新たな成果物です。
三宅一生のプリーツの折りの美しさについて、「日本人だから出来たのか?」という問いに彼はこう答えています。「私は、日本の伝統文化を客観的に観察したり、そこに存在する意味や空間意識のようなことは常に考えています。、、日本の素材を現代の生活に合わすには合理化も含めてどうしたらいいか、色々リサ―チもしてきました。その中で、プリーツの折りも、長い間 『タタム』という研究を続けてきました。布は、たたみ方により、全部表情が変わるという訓練をしてきました。これは、三宅デザイン事務所の中で一つの伝統が出来たということで、日本人だからできたというより、この中の訓練がプリーツの『折』を生んできたものだと思います」 (前出:佐藤和子解説文より)
5.工業と工芸の融合=1枚の布、1本の糸を原点とする職人芸――アノニマスが成功の理想
三宅一生は、大学時代から、日本工芸の織や染を熱心に勉強しており、日本には世界に誇れる優秀な技術や素材があるのに、それらが地方の山の中や、小さな工場で正当な評価を受けることなく眠っていることを残念がっていました。また昔から日常的に着られていた野良着や、車引き、鳶などの日本の仕事着の美しさと機能性にも着目し、研究していました。さらに冒頭で紹介した陶芸家、ルーシー・リィーのように、物事の本質を見極めシンプルな用の美を追求する工芸作家にも、非常な敬愛の気持ちを持っておられました。
衣服と身体の関係を追求し、体を包み込む「1枚の布」を基本コンセプトにしながら、工芸作家の職人芸や手仕事のぬくもりと、現代テクノロジーを合体させようとされた三宅氏は、まさしく、工業と工芸の融合を志向したデザイナーだと考えます。
ファッションが、“デザイナーの名前”という記号を必要としていることについて、氏が、「デザイナーが変に著名性を求めると、必ず堕落が始まる」 と言ったことがありました。「デザイナーはアノニマス(名前なし)になったら勝利だ」 とも。人は服を、気持ちがいいとか、便利だとか、カッコイイから着るのであって、“ブランドや有名な名前 ”だから着るのではない、ということです。その意味では、大成功を収めているプリーツ・プリーズも、BAOBAO(三角形ピースを組合わせ構成した革新的バッグ)も、製品の外観にはIssey Miyakeの名前はなく、まさしくアノニマス製品なのです。
三宅一生氏が追及し、遺された考え方やイノベーションを、このように振り返ってみると、あらためてIssey Miyakeの偉大さを痛感し、そこから学べることの大きさを確信します。そして、氏を支えてきた、三宅デザイン事務所の北村みどり社長をはじめとする、創造的で情熱と行動力にあふれるIssey Miyakeチームにも、大いなる敬意を表するとともに、今後ののさらなる発展を祈念します。
20年余にわたるビジネスの低迷、さらに加えて今回のコロナパンデミックの打撃により、将来が見えなくなった日本のファッション産業。私たちは、一体、どこに向かおうとしているのか?
一生さんの哲学とビジョンを、いまあらためて学び、具体的事例から多くのヒントを得て前進することで、大きな可能性を持っている日本の企業、ひいては日本の産業が、未来へ向けて勇気ある革新を進めることを、切に願っています。