「ファッション・ビジネス回顧録」をまとめたいと思ったきっかけは、FIT(筆者の留学先=ニューヨーク州立Fashion Institute of Technology)で、同校資料センターのアーカイブに、「日本のファッション・ビジネスの母が語る回顧録」として私のインタビューが収録されたことでした。想像だにしなかった米国の評価に、感動すると同時に、日本でも「ファッション・ビジネス回顧録」を纏めておく役割があると感じたからです。
“ファッション・ビジネス”という言葉が、日本語として生まれたのは、1968年です。それは、当時の米国で「ファッション・ビジネスのバイブル」と言われていた本、“Inside the Fashion Business”(ジャネット・A・ジャーナウ/ベアトリース・ジュデール共著)を、筆者が翻訳し、旭化成が「カシミロン販売10周年記念」事業の一環として出版した、『ファッション・ビジネスの世界』(東洋経済新報社 1968年)によるものでした。Fashion Businessという、当時の日本語にはなかった英語を、何と翻訳するかで、3時間半もの議論が必要だったことは先回ご紹介しました。
その本は大きな反響を呼び、業界の要請にこたえて旭化成FITセミナーが1970年にスタート。28年間の長きにわたって毎年継続開催され、世界の先端を行く米国を中心に ファッション産業の仕組みやノウハウ、専門職能などが日本に紹介される結果になりました。さらに、日本にFITのような「実学」、つまり、真に産業志向の教育機関を設立すべし、という運動にも発展し、10周年の1979年にまとめられた「旭化成FITセミナー白書――真の産業教育を目指して」の提言は、その後1992年の (財団法人)ファッション産業育成機構 の創設と IFIビジネススクールの理念の基本となりました。
旭化成FITセミナーは、28年間続いた歴史を1997年に閉じました。IFIビジネススクールが遂に1998年に正式開校の運びになったことが最大の理由ですが、同時に、ファッション産業の構造的あるいは物理的変革はほぼ出尽くし、ITやデジタル技術がビジネスを変容させてゆくステージに入り始めたからでもあります。
1966年のFIT留学から、1997年のFITセミナー終了まで(さらにIFIビジネススクール学長時代も)一貫してファッション・ビジネスを学び、考え、教育のためのカリキュラム企画・構築や招聘講師の選択、セミナーの運営に携わってきた筆者が見た、あるいは体験したファッション・ビジネスの変革、言い換えれば 「時代を画した」イベントや講義を振り返ってみましょう。それにより、FITセミナーが日本のファッション・ビジネスの土台を構築していった歴史を確認していただけると思います。
<FIT(ニューヨーク州立Fashion Institute of Technology)留学>
1966年、フルブライトの奨学生として尾原蓉子がFITに留学した目的は、当時米国で注目されていた ビジネス手法の「ファッション・マーチャンダイジング」を学ぶことでした。
1962年に私が入社した当時の旭化成は、自社技術で開発したアクリル繊維のカシミロンを、おしゃれなニット製品として開発販売すべく苦労を重ねていました。その製品や糸や生地の開発担当要員として、大学卒女子の正規採用は大手メーカーでは皆無の時代でしたが、ただ一人採用されたのです。流行の予測や衣料品の消費性能について学びながら、デザイナーと技術陣と営業マンという3分野の意向を取りまとめて新製品を開発するという、正に手探りの仕事でした。「誰も教えられる人はいない。お金はいくら使ってもいいから、自分で勉強してくれ」 と言われて、高価な業界専門誌や情報を海外から取り寄せていた中で、胸が躍ったのが、「ファッション・マーチャンダイジング」だったのです。
そこで留学を願い出たのですが、「そのうち留学させるから、当面は開発に専念してほしい」といわれて、独自にフルブライト留学に応募しました。しかし筆記試験はクリアしたのですが、面接では大きな壁にぶつかりました。面接官いわく:「マーチャンダイジングとは一体何か?」、「ファッション工科大学(FIT)など、聞いたことがない」、「マーケティングの修士課程の枠で応募しているのに、この大学の学位は経営学修士(MBA)ではない」、などなど。 私は、マーチャンダイジングとは何か、ファッション・マーチャンダイジングを大卒レベルで教える教育機関は米国広しといえどもFITしかない、と必死に説明しましたが、3人の日本人面接官は頭を振るばかり。ただ有難いことに米国人らしい一人の面接官が、「彼女は新しい専門領域を学びたがっている。それを教える大学がFITしかないのなら、行かせてやったらよいではないか」と援護射撃をくれたのです。それでも「落ちた」と諦めていた私は、合格通知に飛び上がったことは言うまでもありません。
<当時の既製服の状況>
ちなみに“おしゃれな既製服”は、当時の日本では一般的ではなく、専門店もまだ少数。百貨店での婦人既製服のサイズ展開も、大手3社が1964年に 5・7・9号に統一したばかりで商品は限られていました。おしゃれな服は、百貨店などのイージーオーダー(生地売り場でファブリックを選び、マネキンに着せたデザイン見本から好みの服を選んで仕立ててもらう)か、家庭縫製、あるいは仕立て屋さんに作ってもらう時代でした。当時、既製服に先立ってニット製品(セーターやニットスーツ)の人気が急上昇していたのは、伸び縮みするニットはサイズの問題が既製服ほど厳密でなくてもよかったからです。
実は私は、FIT留学の11年前、1955年に、AFS(American Field Service)の高校交換学生として、米国ミネソタ州のマンケイト・ハイスクールに留学したのですが、渡航した氷川丸の甲板で撮った興味深い写真があります。(画像参照)
左の、横浜港出港の時に着ている服は、名古屋から京都までわざわざ出かけて手に入れた生地を、海外雑誌を参考に流行のパニエ入りのスタイルで、何度も仮縫いをして仕立ててもらったものでした。これに対して右側の写真は、1年の留学の終わりに、ロサンゼルスで たまたま立ち寄った百貨店で “留学記念に”と買ったものです。小柄な私にサイズ5でぴったり、きれいなレースの細かいフリルがいっぱいついたオシャレなもの、そして何と30ドルの値札がセールで10ドルになっていました。この時点(1956年)ですでに、米国のファッション・ビジネスは、かなり発展した段階にあったことが分かります。 (第2回 に続く)



