【ファッション・ビジネス回顧録】  ― 日本のファッション・ビジネスの誕生・発展 と 旭化成FITセミナー     <第2回> 『ファッション・ビジネス の世界』の出版

<F.I.T. でのの衝撃:「ファッションはビジネスである」 >

F.I.T. (ニューヨーク州立ファッション工科大学)での学びは、初日から「驚き」の連続でした。

1966年8月末、ニューヨークのマンハッタン中心部、西27丁目に位置するF.I.T. での初日のクラスで、まず衝撃を受けたのは、「ファッションはビジネスである」、でした。F.I.T. が「実学」の大学であることは知っていましたが、1944年に業界主導で創設された専門高校が公立のファッション総合大学の発展した経緯から、アート、ビジネス、デザイン、テクノロジーの4分野を通じて、「実学」がモットーであり、ファッションも、「ビジネスとして成立しなければデザイナーといえども存続できない」、という考え方が徹底していました。

ファッションを、「美しさやデザインの表現」と単純に捉えていた私にとっては、まさに目から鱗。「ファッションは厳しいビジネスの世界なのだ」、が以後の学びの基本(核)となりました。

さらに、「FB(ファッション・ビジネス)は消費者に始まり 消費者に終わる」、「小売のレジが、何がファッションになるかの投票箱」 という視座と消費者への照準。たとえ業界構造の川上・川中(テキスタイル、アパレル段階)で話題を呼んだ製品でも、それが消費者に受け入れられなければ、ファッションにはならない。ファッション・ビジネスでは、素材メーカーといえども、小売りと消費者の動向を注視せねばならない、ということでした。サプライチェーンの言葉など無かったこの時代でも、その考え方はすでに明確でした。

<実学の徹底>

「実学」はあらゆる面で生きていました。たとえば、必須科目の「テキスタイル科学」では、インダストリー(工業)としての繊維あるいは編織や高度な後加工の手法などを教えますが、小売りのバイヤー教育では、繊維の識別方法を身近にある材料を使って教えます。専門的な試薬がなくても、マッチや水、マニキュア除光液を用いて、素材の燃え方や、水を含むと強度が弱くなるか強くなるかでレーヨン、麻、コットンを。さらに除光液(アセトンに溶ける)でアセテートを見分ける、といった具合です。小売りの仕入れオフィスに持ち込まれる製品の表示に偽りがないか、あるいは取扱説明を確認する基本的で簡便な手法を教え、バイヤーやデザイナーの実務能力を磨くのです。

課題でも、学生たちは、業界に積極的に関わりながら、実践的な知識を身につけていきました。プロジェクトのテーマを自分で選ぶことが推奨され、私は旭化成勤務の経験から、デュポン社に足を運び、販促キャンペーンの効果や費用について直接学んだりしました。F.I.T.での教育は、教室での学びを超え、現場での実践がプロを育てる重要な要素であることを教えてくれました。カリキュラムが、創・工・商、つまり、創造活動、製造/技術分野、商業を連動させるよう組み立てられていることにも感心しました。

<『ファッション・ビジネスの世界』――翻訳と記念出版>

F.I.T. の教科書、 “Inside the Fashion Business”との出合いは、まさしく目からうろこの衝撃であり、私の人生を変えました。

この本は、F.I.T. の最大専攻である、小売りの「バイイング&マーチャンダイジング」 を専門コースとして組み上げた ジャネット・A・ジャーナウ女史が、「教科書がない!」と、リサーチャーのジュデール女史と組んで自ら書き下ろしたもので、業界でも“ファッション・ビジネスのバイブル”などと呼ばれていました。ジャーナウ氏は、米国トップの百貨店グループ、フェデレーテッドの中でも、最も利益を上げていた A&S百貨店(Abraham Straus)の商品部長として業界の高い評価を得ていた方でした。この本で学ぶ「ファッション・ビジネス入門」講座は、F.I.T.のすべての専攻で初年度の必須科目となっていました。 

奇しくもその頃(1967年)、旭化成では自社技術での開発に苦労したアクリル繊維のカシミロンが大成功しており、発売10周年を期して業界に謝意を表する記念事業の企画が進んでいました。F.I.T. 留学中の尾原にも、「記念事業にふさわしい良いアイディアはないか?」と問い合わせがきました。

私は迷わず “Inside the Fashion Business”の翻訳出版を提案しました。この本が説く、日本にはまだないファッション産業の構造とビジネスの仕組みが日本で実現すれば、日本の繊維衣料品産業は画期的な飛躍を遂げると考えていたからです。さらに当時の日本には、それまで輸出ビジネスとして急拡大していた繊維産業(糸と生地中心)が、発展途上国による追い上げや先進国の輸入制限などで苦戦しはじめており、将来への危機感がありました。内需拡大につながる既製服重視の考え方は、正に日本が進むべき方向でした。

この本は、日本では まだ未発達であったアパレルや小売りのビジネスを重視し、繊維・テキスタイルだけではない業界全体を俯瞰する、新たなビジョンを示すものだったのです。 

 

<記念出版して、旭化成が恥をかくことはないか?――――キャリア最大の決断へ>

しかし出版の提案は、簡単には実現しませんでした。まず、本の概要や章立てを説明しましたが、「ファッション・ビジネスとは何か。よくわからん」、「流行のような変化が激しいものをビジネスとして扱えるのか?」と疑問が送られてきます。説明と更なる質問が航空便やテレックスで何回も往復しました。そして、最終的に来たテレックスの質問は、何と、「良さそうな本だが、これを記念出版して、旭化成が恥をかくことはないか?」 でした。

私は絶句しました。当時28歳。専門的勉強はしていましたが、“旭化成のような大企業が記念事業で恥をかく”とはどういうことか。想像もできません。でも相談する人がいない事だけは、すぐに分かりました。当時ニューヨークに駐在していた商社マンは、糸や生地以外には“ワン・ダラー・ブラウス”などと呼ばれた安物のブラウスをシアーズなどに卸しているだけでしたし、日本に居る海外ビジネス担当者は「ファッション」の言葉すら、寝耳に水だったからです。

三日三晩 爪を噛みながら考えて、「恥をかくことはありません」 と一行の短いテレックスを打ちながら、私は密かに決意していました。「今、私がリスクを恐れて、この企画を引っ込めたら、日本の繊維衣料品業界の大きな飛躍のチャンスを失うことになる。万一この本が理解されないことがあれば、自分が日本中を説いて回ろう」、と。今振り返ると、これは私のキャリア最大のコミットメントでした。

しかし思えば、旭化成にとってもこの本の出版は ”大きなリスク” でした。それを決断された関係者に敬意を表するとともに、私に置いていただいた ”信頼” にも感謝しています。

Fashion Businessの訳語についても、3時間半の議論があり、「ファッション・ビジネス」で行こう、との東洋経済新報社編集長の最終提案にも、旭化成メンバーは、「ショービジネスみたいで、軽佻浮薄に聞こえる」と、心配そうな面持ちでした。しかしこの言葉もすんなり社会に浸透し、1年後に一般紙の株式市況欄で、「ファッション・ビジネス関連株 高い」の見出しを見た時には、密かに「やったー!」と小躍りしました。

<旭化成FITセミナーの開始:1970年>

 1968年8月の記念事業で配布された、訳書『ファッション・ビジネスの世界』は、大きな反響を呼びました。当時、流通革命のリーダーとして飛ぶ鳥を落とす勢いであったダイエー創業者の中内功氏などが、「これをもっと詳しく学びたい!」と旭化成トップに要請。「業界向けのセミナーが出来ないか、検討してほしい」との指示が、記念事業事務局長の森合敬忠氏と担当の藤本慶光氏(いずれも故人)からありました。私は丁度 長男を出産した直後でしたが、F.I.T. のジャーナウ教授(当時、FITのファッション・バイイング&マーチャンダイジング学科長)に相談と依頼の手紙を書きました。

そしてF.I.T. の協力を得て、「旭化成FITセミナー」が、1970年7月に開講する運びになったのです。

『ファッション・ビジネスの世界』の巻頭言で旭化成の 宮崎 輝 社長は述べています。

「繊維原料メーカーとして、当社は、いわゆる「ファッション」産業への様々な働きかけを行ってきました。また、つねひごろ業界から多くのご愛顧を頂いているものとして、何か有意義な企画をと考えていましたところ、はからずもカシミロン発売10周年記念の一つとして、このような有益な著作を江湖の関係者におすすめできる機会を持ちえたことは、まことに時宜にかない、意義深いことであると思います。」 業界の発展を願う当時の素材メーカーの心意気を表すものでした。                           

                      (第3回へ続く)。

【ファッション・ビジネス回顧録】  ― 日本のファッション・ビジネスの  誕生・発展 と 旭化成FITセミナー   <第1回> FIT留学と「実学」体験

「ファッション・ビジネス回顧録」をまとめたいと思ったきっかけは、FIT(筆者の留学先=ニューヨーク州立Fashion Institute of Technology)で、同校資料センターのアーカイブに、「日本のファッション・ビジネスの母が語る回顧録」として私のインタビューが収録されたことでした。想像だにしなかった米国の評価に、感動すると同時に、日本でも「ファッション・ビジネス回顧録」を纏めておく役割があると感じたからです。

“ファッション・ビジネス”という言葉が、日本語として生まれたのは、1968年です。それは、当時の米国で「ファッション・ビジネスのバイブル」と言われていた本、“Inside the Fashion Business”(ジャネット・A・ジャーナウ/ベアトリース・ジュデール共著)を、筆者が翻訳し、旭化成が「カシミロン販売10周年記念」事業の一環として出版した、『ファッション・ビジネスの世界』(東洋経済新報社 1968年)によるものでした。Fashion Businessという、当時の日本語にはなかった英語を、何と翻訳するかで、3時間半もの議論が必要だったことは先回ご紹介しました。   

原著 “Inside the fashion Business”

訳書 『ファッション・ビジネスの世界』

 

 

 

 

 

 

 

その本は大きな反響を呼び、業界の要請にこたえて旭化成FITセミナーが1970年にスタート。28年間の長きにわたって毎年継続開催され、世界の先端を行く米国を中心に ファッション産業の仕組みやノウハウ、専門職能などが日本に紹介される結果になりました。さらに、日本にFITのような「実学」、つまり、真に産業志向の教育機関を設立すべし、という運動にも発展し、10周年の1979年にまとめられた「旭化成FITセミナー白書――真の産業教育を目指して」の提言は、その後1992年の (財団法人)ファッション産業育成機構 の創設と IFIビジネススクールの理念の基本となりました。
旭化成FITセミナーは、28年間続いた歴史を1997年に閉じました。IFIビジネススクールが遂に1998年に正式開校の運びになったことが最大の理由ですが、同時に、ファッション産業の構造的あるいは物理的変革はほぼ出尽くし、ITやデジタル技術がビジネスを変容させてゆくステージに入り始めたからでもあります。
1966年のFIT留学から、1997年のFITセミナー終了まで(さらにIFIビジネススクール学長時代も)一貫してファッション・ビジネスを学び、考え、教育のためのカリキュラム企画・構築や招聘講師の選択、セミナーの運営に携わってきた筆者が見た、あるいは体験したファッション・ビジネスの変革、言い換えれば 「時代を画した」イベントや講義を振り返ってみましょう。それにより、FITセミナーが日本のファッション・ビジネスの土台を構築していった歴史を確認していただけると思います。

<FIT(ニューヨーク州立Fashion Institute of Technology)留学>

1966年、フルブライトの奨学生として尾原蓉子がFITに留学した目的は、当時米国で注目されていた ビジネス手法の「ファッション・マーチャンダイジング」を学ぶことでした。
1962年に私が入社した当時の旭化成は、自社技術で開発したアクリル繊維のカシミロンを、おしゃれなニット製品として開発販売すべく苦労を重ねていました。その製品や糸や生地の開発担当要員として、大学卒女子の正規採用は大手メーカーでは皆無の時代でしたが、ただ一人採用されたのです。流行の予測や衣料品の消費性能について学びながら、デザイナーと技術陣と営業マンという3分野の意向を取りまとめて新製品を開発するという、正に手探りの仕事でした。「誰も教えられる人はいない。お金はいくら使ってもいいから、自分で勉強してくれ」 と言われて、高価な業界専門誌や情報を海外から取り寄せていた中で、胸が躍ったのが、「ファッション・マーチャンダイジング」だったのです。
そこで留学を願い出たのですが、「そのうち留学させるから、当面は開発に専念してほしい」といわれて、独自にフルブライト留学に応募しました。しかし筆記試験はクリアしたのですが、面接では大きな壁にぶつかりました。面接官いわく:「マーチャンダイジングとは一体何か?」、「ファッション工科大学(FIT)など、聞いたことがない」、「マーケティングの修士課程の枠で応募しているのに、この大学の学位は経営学修士(MBA)ではない」、などなど。 私は、マーチャンダイジングとは何か、ファッション・マーチャンダイジングを大卒レベルで教える教育機関は米国広しといえどもFITしかない、と必死に説明しましたが、3人の日本人面接官は頭を振るばかり。ただ有難いことに米国人らしい一人の面接官が、「彼女は新しい専門領域を学びたがっている。それを教える大学がFITしかないのなら、行かせてやったらよいではないか」と援護射撃をくれたのです。それでも「落ちた」と諦めていた私は、合格通知に飛び上がったことは言うまでもありません。

<当時の既製服の状況>

ちなみに“おしゃれな既製服”は、当時の日本では一般的ではなく、専門店もまだ少数。百貨店での婦人既製服のサイズ展開も、大手3社が1964年に 5・7・9号に統一したばかりで商品は限られていました。おしゃれな服は、百貨店などのイージーオーダー(生地売り場でファブリックを選び、マネキンに着せたデザイン見本から好みの服を選んで仕立ててもらう)か、家庭縫製、あるいは仕立て屋さんに作ってもらう時代でした。当時、既製服に先立ってニット製品(セーターやニットスーツ)の人気が急上昇していたのは、伸び縮みするニットはサイズの問題が既製服ほど厳密でなくてもよかったからです。
実は私は、FIT留学の11年前、1955年に、AFS(American Field Service)の高校交換学生として、米国ミネソタ州のマンケイト・ハイスクールに留学したのですが、渡航した氷川丸の甲板で撮った興味深い写真があります。(画像参照)

日本で仕立てたドレス(1955年出発時)と米国の既製服(1956年帰国時)

左の、横浜港出港の時に着ている服は、名古屋から京都までわざわざ出かけて手に入れた生地を、海外雑誌を参考に流行のパニエ入りのスタイルで、何度も仮縫いをして仕立ててもらったものでした。これに対して右側の写真は、1年の留学の終わりに、ロサンゼルスで たまたま立ち寄った百貨店で “留学記念に”と買ったものです。小柄な私にサイズ5でぴったり、きれいなレースの細かいフリルがいっぱいついたオシャレなもの、そして何と30ドルの値札がセールで10ドルになっていました。この時点(1956年)ですでに、米国のファッション・ビジネスは、かなり発展した段階にあったことが分かります。           (第2回 に続く)

米国ファッション工科大学(FIT)の図書館に、尾原の回顧録が収録されました

8月、特に2025年の今年は第二次大戦・太平洋戦争の終戦80周年を迎え、改めて日本の敗戦と世界大戦の重み、そしてその後の変容を深く考える時です。

今年は私個人にとっても記念すべき年です。というのも、初めて米国に高校2年生で留学してから丁度70年。そしてまた、今年4月に、ニューヨーク州立ファッション工科大学(略称のFIT)の記念イベントの一環として、 “日本のファッション・ビジネスの誕生と発展”についてニューヨークで講演したり、FITの資料センター(図書館やファッション博物館)のアーカイブに、尾原の回顧録として“米国に学んだ日本のファッション・ビジネス物語”」が単独インタビュー(いわゆるOral History)としてビデオ収録される、という名誉を頂くことになったからです。英語でのインタビューは、「日本のファッション・ビジネスの母」と紹介されました.(画像はFITでの講演で、ジョイス・ブラウン学長と)

インタビューで驚き感激したのは、『ファッション・ビジネスの世界』の著者のジャネット・ジャーナウ教授の言葉として司会者(インタビューアー)が紹介した内容でした。曰く、「ヨーコは、FIT卒業生の中で、最も成功した卒業生だろう。なぜなら彼女は、デザイナーで有名になったのでも、会社を設立したのでもなく、大手企業のトップになったわけでもない。しかし彼女は、“ファッションという産業を構築したのだから。」 FITが卒業生を、個人の名声だけではなく、“産業を構築した”といった視点とスケールで評価することに、大いに感動しました。(もちろん、それは私一人の力ではなく、旭化成やFITセミナーで熱心に学ばれた業界リーダーの力によって達成出来たものですが、、、)(下記画像はFITアーカイブ収録のビデオ・インタビュー。提供:FIT/ Gladys Marcus Library)

インタビューは、この言葉をきっかけに、フルブライト奨学生としての尾原のFIT留学や、同校のFMM(ファッション・マーチャンダイジング/マーケティング)コースでの刺激的学び、日本にファッション産業(特にアパレル/小売り業界)の最先端を日本に紹介したいとの想い、『ファッション・ビジネスの世界』の翻訳出版、そして28年間にわたって続いた業界向け教育プログラムの「旭化成FITセミナー」の企画エピソード、さらには160余名の来日講師(米国のみならずヨーロッパからの)、、、などについて展開しました。   (画像は、『ファッション・ビジネスの世界』1968年初版と旭化成FITセミナーのパンフレット)

日本におけるファッション・ビジネスは、振り返れば原著タイトル “Inside the Fashion Business” の Fashion Businessを何という日本語にするかで出版社(東洋経済新報社)との3時間半の激論の末、「これ、日本語にしてしまいましょう」との編集長のリードで1968年にスタートしました。そして、1970年代のアパレル企業の目覚ましい成長(1973年に起きた石油ショックにさえも、日本のアパレルは殆ど影響を受けず2桁成長を続けた)、さらにその後の多様な変革と発展を経て、今日にいたっています。

今、その産業は、アパレルあるいはファッションに関しては、かなり厳しいものになって来ています。しかしそれとて、経済成長とともに人々の生活が豊かになり、価値観の変化・多様化という進化が起こった結果である事は、「マズローの欲求5段階説」を引くまでもなく、周知の事実です。“有名ブランド”に付いていたプレミアム価値の多くは剥げ落ちて、今や、580円の「冷感  T シャツ」が大ヒットする時代になっているのです。

テクノロジーの進展、具体的には、コンピュータやインターネット、スマートフォーンの普及、デジタル化やSNSの拡大も、ビジネスを大きく変えました。商品の作り手、売り手は、かつての素材メーカーやアパレルメーカーばかりでなく、消費者にも広がって CtoC となり、さらに受け手である消費者は、BtoMe、あるいは、CtoMe,つまり一般的に言う「個人」から「Me=私」になってきているのです。 

そんなことから、今年は、“ファッション・ビジネスの回顧”  あるいは “キャリアの整理” のつもりで私が体験したファッション・ビジネスの変容をまとめたいと考えています。  ( → 次回から「日本のファッション・ビジネス回顧録」のシリーズを書く予定です)